野鳥時計のキビタキの鳴き声が3時を告げるとともにBGMが絞られ、暗くなった会場が青いライトに照らされて、ジャズコンサートが始まりました。
 一曲目は「サティンドール」です。


 冷たい長雨が続いた前日までとは違い、薄日の差す陽気にも誘われて、ジャズを愛好される地域の方々が集まっています。曲に合わせて、体全体でリズムをとられる方もいます。
 二曲目は「フライ ミー トゥ ザ ムーン」です。


 引っ越し屋さんから「国宝並」と言われたポトスの転居から、早一年がたちました。ポトスは新居がすっかり気に入ったようです。それぞれの茎が、数メートルから十メートル以上もさらに伸びています。今日は演奏に合わせて「葉ミング」しているかもしれません。
 三曲目は「枯葉」です。


 バンドのリーダーは、高校時代マンドリンクラブの代表を務め、理学部に入学してからはベースを担当しています。大きなベースを運ぶためにマイカーを購入し、様々な演奏会に飛び回っています。
 四曲目は「キャンディ」です。


 ボーカルは医学部生。ジャズ喫茶のアルバイトで、プロの生演奏にふれながら磨きをかけています。
 五曲目は「酒とバラの日々」です。


 キーボード(ピアノ)は園芸学部生。学部は松戸にあるにもかかわらず、毎日のジャズ練習のために西千葉に下宿。片道1時間半の電車通学を続けています。今日は腰の痛みをこらえながらの大熱演です。
 六曲目は「A列車で行こう」です。


 ギター担当は、画像工学を学ぶために、全国で唯一講座がある千葉大に入学し、危険な薬品を取り扱う実験に長い時間を割きながらも、ギターの練習を欠かさず、たくさんのレパートリーを持っています。
 コンサートの最後は「虹の彼方に」です。


 ところでジャズが生まれたのは、19世紀の後半、アメリカのニューオーリンズと言われています。
 日本では江戸幕府を倒そうという動きで物騒なころ、太平洋を隔てたアメリカでは南北戦争が闘われていました。北軍の勝利の後、奴隷解放令が出されたことは、ほとんどの黒人にとって朗報でしたが、一部に悲劇もありました。
 ニューオーリンズでは、フランスの統治時代から白人と黒人の混血の人々がクレオールと呼ばれ、白人と同等の生活を送ってきました。奴隷解放令が出されたために特権的な身分を奪われた白人達は、黒人達を差別し続けたのはもちろん、クレオールを白人社会から締め出し、黒人達と同じ生活に追いやったのでした。
 それまで優雅にクラシックを楽しんできたクレオールの人々は、慣れない労働の日々を送りながらも、黒人の人々といっしょに音楽を奏で始めます。クラシック音楽とラテンアメリカ音楽の出会いです。
 南北戦争が終わったため不用になった軍楽隊の楽器が安く手に入る好条件もあり、ニューオーリンズではそこここに様々な楽器が組み合わさった、新しいリズムが生まれていきます。
 こうして生まれた「ニューオーリンズ スタイル」は南部一帯に広がり、「デキシーランド スタイル」と呼ばれるようになります。
 南部で農業労働力の需要が低下し、北部で工業労働力の需要が急増すると、数百万の黒人が北部へと移住して行きます。それに伴って「デキシーランド スタイル」も北部へ進出します。北部の中心都市シカゴでは「Jass」という俗語で呼ばれるようになり、その後「Jass」から「Jazz」へと変わっていきます。


 自由な演奏や即興的な演奏は、ジャズの特色の一つです。
 その場にそろった楽器同士で、いろいろな演奏ができます。
 多くのメンバーが活躍している千葉大学モダンジャズ研究会の中で、演奏していただいた四人がカルテットを組んだのは今回が初めてだそうです。
 前日の練習だけですばらしい演奏ができるのは、日ごろの練習もさることながら、個々の力を何倍にも引き上げてしまうコンサートの魔力があるからでしょう。
 「曲目が進むごとに盛り上がってきた」
 コンサート後の交流会で、メンバーの四人が四人とも話していました。
 「演奏する方も聞く方でも、どんどんのってきてとても楽しかった」
 50年来のジャズファンという方をはじめ、交流会に参加された観客の方々が口々に語っていました。


 第一次世界大戦が終結してから大恐慌が始まるまで、アメリカの繁栄の時代を「ジャズ・エイジ」と呼んでいます。
 9月29日の「塾舎新築1周年記念 昼さがりのジャズコンサート」を機に、末永いジャズ・エイジにしていきたいものです。
 アンコールの曲目は「オール オブ ミー」でした。



ジャズコンサート