「数学っておもしろいね」
 ある塾生が帰りがけに話しかけてきます。前回までに書いてあげた説明用紙を大事そうに取り出し、その日の説明用紙といっしょにしまいながら。
 この塾生は、以前は数学に苦しんでいました。問題が解けなくて泣き出すことも、幾度となくありました。
 なぜ数学がおもしろく感じられるようになったのでしょう。苦しかった数学が、どうして楽しい数学に変わったのでしょう。
 たぶん数学がわかるようになったからではないでしょうか。


 「わかる」と「できる」は、似ていますが、実際には異なります。
「わかる」は、どうしてこうなるのかという途中の経過を大事にします。「できる」は、正解なのか不正解なのかという結果を大事にします。
 途中の経過も、結果も、両方とも大事ですが、どちらに比重を置くかによって、数学に対する印象はずいぶん違ってきます。
 問題を解いてすべて正解だったらいいのですが、不正解があれば、自分の力不足をなげくか、数学がきらいになるか、その両方になるかもしれません。正解か不正解か、二者のうちどちらかという結果重視型からは、いつもいつも全問正解とならない限り、心は晴れません。
 今では数学を楽しんでいるこの塾生も、前は問題が解けないと自分を責め、解いても正解でないと自分を責めていました。大粒の涙にぬれるノートには、悲しさや苦しさ、苦々しさがにじんでいたことでしょう。
 しかし、いつしか正解と不正解の二者だけではないことに気づき始めたようです。たとえ正解だったにせよ、ここまでははっきりわかっていたが、ここからはあいまいだったというように、解答過程のそれぞれの段階を点検するようになりました。答えだけではなく、途中の式や計算をノートに書くようになったのもそのころです。
 途中の経過を見直すようになると、どうしてこうなるのだろうかと、見過ごしていた疑問が出てきます。当然質問も増えてきます。解答と同じだったからと、それまでなら飛ばしてきたあいまいな部分をも、じっくり見直すようになっていきます。そうなれば、理解は一段と深まります。


 「わかる」は、どこまでわかるかによって途中の段階は無限に分かれます。一方「できる」は、できるかできないかのどちらかという二段階になりがちです。
 エジソンは電球を発案した後、実際に作る過程で大変苦労したそうです。
 フィラメントの材料を何にすればよいか、数多くの材料を一つ一つ実験していきました。Aの材料を用いてうまくいかなかった時、エジソンはその実験を失敗したとは考えませんでした。「Aという材料がフィラメントには適さないことが分かった」と考えました。その後、B材料、C材料…と実験を続け、次々に成果を重ねていきます。BもCもフィラメントには適さないことがわかり、可能性がある材料がどんどんしぼられていると。

 数学の問題も、解けない、解けないと思う前に、何がわかっているのか、どこまでわかっているのかをはっきりさせればいいのです。条件としてあげられていることや、求められていることなどなど、これなら読めばわかるはずです。解けないと思ってしまう前に、わかることは何かと探っていけば、「アッそうか」と糸口が見つかります。問題文に書いてある条件をおさえさえすれば、だいたい解けるはずなのですから。
 ここまでならわかるというとらえ方をしますと、心に余裕ができます。余裕がでてくればいろいろなことに気がつき、解答作業が進んでいきます。


 「わかる」とは、納得することです。「できる」とは、納得したかどうかは別にして、正解が得られることです。
 「宇宙が生まれる前はどうだったんだろうか」
 「花はどうして『はな』と言うのだろう」
などと、身のまわりにあるもの、世の中の大半はわからないことだらけです。ただ数学の問題は違います。答えが出るように、あらかじめ細工がほどこしてあるからです。人類が何千年にわたって積みあげてきた技法を用いれば解けるはずなのです。
 とはいえ技法を活用するだけで、どのようにしてその技法が生み出されてきたのかも考えなければ、できているのにわからない状態が続いてしまいます。
 たとえば「分数÷分数」はどうして「分数×分数」になるのでしょうか。                               

 分母や分子が分数になっている繁分数を使えば、「分数の割り算が掛け算に変わる」ことが納得できます。高校の授業にもほとんど出てこない繁分数を使って説明した方が、理由の説明を抜きにして「分数の割り算を掛け算にする」と機械的に技法を覚えさせるよりも、きっと心に残ることでしょう。なぜかがわかれば、問題を解いた後の喜びも増していきます。


 先日、18才になる塾生が、ノート1ページを使って数学の問題を一つ解きあげました。「できたー」という声に、ノートいっぱいの大きな○をつけてあげましたら、「花丸にして」と頼まれました。百花爛漫のひとときでした。

花丸